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2008年01月27日

雪に思う

皆様、いかがお過ごしでしょうか。ここ数日の大雪にすっかりやられてしまった龍之介です。
北日本を直撃した爆弾低気圧は、予想以上の大雪を残したみたいですね。
外を見渡す限り、雪、雪、雪の銀世界。毎年の光景とは言え、今年は年明けまで雪が少なかったこともあってか、これが本当の冬景色なんだと痛感しました。近所まで出歩くのも一苦労です。

もしかしたら、こういうときに改めて自然の恐ろしさを感じるのかもしれません。
どんなに文明が発達しようとも、この大雪を回避することもできないし、天気を変えることもできない。天からもたらされるものがどんなものであっても、それを受け入れる以外に他に手立てはない。
だけど、それに抗うことなく、そこからどのように対処をするかによって、共存することなら可能なのではないか。人間だって自然の一部なのだから、決して切り離された存在として考えるのではなく、一つの集合体として考えていけば、こんな雪国でも生きていけるはずなんだと。
ふと、降り続ける雪を見つめながら、そんなことを考えてしまいました。
本音を言えば、できるだけ降って欲しくないんですけどね。粉雪程度であれば、まだいいのですが、さすがに今回のようなドカ雪は勘弁願いたいものです。こう見えて、冬はあまり好きではないのでして。

でも、雪を敵対視するのではなく、上手く折り合いを付けていけば何とかこの状況も乗り切れるんじゃないかとも思っています。
この大雪を何とかしようと必死に足掻くよりも、むしろ上手い具合に付き合っていこうと割り切るのも一つの手かもしれません。実際問題、そう思うことで、ちょっとだけ気が楽になりましたので。
雪だけでなく、自分にとって厄介な問題にも、敵対視するのではなく、どうすれば歩み寄ることができるかを考えた方が、心身ともにいいんじゃないかと考えることもあります。無理に対処しようとせず、ありのままの自分として接すれば、それでいいわけですし。
もう少し気楽に生きられるようにしたいものです(これもまた私の2008年の目標)。

投稿者 龍之介 : 23:38 | コメント (0)

2008年01月24日

映画「ドッグビル」

映画「ドッグビル」を観た。
カンヌ映画祭で独特の手法で絶賛を浴びた映画だそうだ。
直訳すると「犬の村」。
なにか暗示的だ。

メイキングムービーを先に観た。
女優ニコールキッドマンが演技と現実を混同してしまって実際に苦しんでいた。
キッドマンの純粋さ、清楚さ、美しさがひと際目立っている。
そして俳優たちの演技が実にうまい。
それぞれに、役に苦しみながら3週間演じたのだろうか。
監督のグッドジョブだ。

その斬新な手法がいい。
実際の建物、道路を使わず、大きな体育館に平面図を描いただけで椅子やベッドなどわずかな家具を置いただけで撮影している。
畑を耕すのも、鋤を動かすだけで表現している。
言い換えると、まるで舞台の立ち稽古のようだ。
何もないが故に俳優の演技がレリーフのように浮かび上がる。
透明な背景に人物が遠近法で描写されるかと思うと、接写で録音し、密室を表現する。

この作品は実に深い味わいがある。
見終えると、ふーっと息をひとつ。
教材としてとらえると、とても興味深い。
いくつかの観点がある。
第一に、歴史的状況だ。
アメリカ西部の1930年代の大不況期の、貧しい廃坑の村の経済と人々の暮らし、その閉鎖された空間で人の意識がどのように醸造されていくのかが興味深い。
第二に、支配、被支配の関係がどのように生じ、維持されるか、という問題だ。
維持するためには役割意識が再生産されなければならない。
第三に、閉塞状況の中で、すべての人が同じことをするのだろうか。
ある特殊な状況に置かれた場合、ある行動をとるということが、一般化できるのかどうか。
あらゆる国で同じことが起きるのだろうか、という疑問が生じる。


普通の人々が、普通に生活しながら、迫り来る権力の増大の中で、圧迫を感じながら、権力側に知らず知らずにつくことに心地よさを覚えていく。
弱者を虐げることで心の安定感を得ていく。
相手が自分より弱ければ力を振りかざし、嵩(かさ)にかかって攻めることはないだろうか。
多少それで自分が強くなったように、正義を全うしたように思うことができる。


同時代にナチスドイツが台頭する。
ある意味では、独裁を許すか許さないかの違いはあるが、アメリカも暴力に支配された閉鎖的な状況になかっただろうか。

映画では、虚妄に包まれた愛とエゴがむき出しにされる。

なによりも普通の人々が主人公であるということが、重要なのだと思う。

そして、実際に、演劇指導をしたくなった。

投稿者 恵比寿 : 22:58 | コメント (0)

お茶をどうぞ

城谷小夜子です。
お寒うございます。
今日はまた雪が降りました。
うちの事務所は、自宅から車で数分のところにあります。
T字路の角。前はと右は道路。左は3台入る駐車場。
後ろは二十一世紀の森。
演劇人にはありがたい環境です。
セリフの稽古も、
三味線で義太夫を語っても
大丈夫。
先日、松戸市から横の木の枝を切りに来てくれました。
この寒いのに
表で休憩されてました。
4人にお茶を出しました。「トイレも使ってくださいね」
今日は、信号機を移動さすために、道路を直しに来た4人の人たち。
この前も寒かったけど
今日はまた特別に寒い。
雪の中、みな頑張っています。
「お茶入りましたので、うちどうぞ」とうちに招きました。
あまりに寒いからです。
狭い玄関に、ざぶとんを敷いて上にカーテンをかぶせました。
「汚れるから」ときっと遠慮されると思ったからです。
4人は「え〜」という顔でうちに来てくれました。
大福もちとお茶。
ハロゲンヒーターを2台。
ちょっとの間でもあったまって貰いたかったのです。
「トイレ使ってくださいね」
今日の4人も、うちのトイレは使われませんでした。
雪の中、夕方まで工事の音が鳴っていました。
わたしはなんだか、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
工事は明後日まで続きます。
明日もお茶をのんでもらえると嬉しいな・・・・。

投稿者 城谷小夜子 : 00:41 | コメント (0)

2008年01月16日

一日一首

今年1年かけて「小倉百人一首」を
米津先生の自宅で学びます。
そのために、元旦から一日一首作ろうと決め、
今のところ毎日数首作っています。
短歌日記です。
へたでもとにかく続けること。
「へたこそものの上手なれ」
といいますし、
「継続は力なり」
と、楽しみながら作っています。

玉三郎 幼き日から 踊る人 未来思わず 明日のみ思うと
伊達師匠に 病室で習う 「尼ケ崎」 初美師匠の 三味線響く 

 

投稿者 城谷小夜子 : 23:39 | コメント (0)

2008年01月13日

故郷の空に想う

かなり遅れてしまいましたが、新年明けましておめでとうございます。
皆様、いかがお過ごしでしょうか。年末年始は意に反して寝正月だった龍之介です。
別に風邪を引いたわけでもないのですが、妙に体がだるく、寝ようと思えばいつまでの寝ていられる状態だったため、ほとんど寝て過ごしていました。
せめて、寝正月になるのであれば、ここぞとばかりに読書に耽ろうかと思ったのですが、それすらできないぐらい。「探偵ガリレオ」シリーズや、「チーム・バチスタの栄光」など読みたい本があったのに、今のところまだ読めずじまいです。他にも読みたい本があり、なかなか手が回らないのが現状です。
しかし、そんなに疲れていたのかどうかは分かりませんが、散々寝てもさほど疲れが抜けませんでした。そう言えば、疲れているからといって一日中寝て過ごしても、疲れは抜けないという話を前にテレビで見た覚えが。
寝るだけでなく、適度な運動をすることが大事だそうです。やはり汗をかいて新陳代謝をすることが必要みたいですね。新年早々、学ぶものがありました。

そんな状態の年末年始でしたが、今年も帰省先で初詣と初日の出を拝みに行ってきました。
薄曇りの天気だったため、去年のように神々しいオレンジ色の光を拝むことができなかったのが、ちょっと残念でした。でも、雲の切れ間から見える穏やかな光や、遠くに見える工場の白煙が、子供の頃に見た冬の朝の情景ってこんな雰囲気だったなと懐かしく思え、ふと童心に帰ることができました。
こういった心のふるさとと呼べる場所があるのは、とても心強いことなのかもしれません。人間、大切な場所や大切な人によって支えられていると思うと、それだけで何かしらの力の源を感じるんじゃないかと、しみじみ考えてしまいました。
そう言えば、神社で引いたおみくじにも、「他者への感謝の気持ちを忘れなければ幸運が訪れる」と書いてありました。今年はこの気持ちを忘れることなく、1年を過ごしていきたいと思います。

投稿者 龍之介 : 13:20 | コメント (0)

2008年01月11日

あけまして2008

 年をまたいで、久しぶりのブログ更新となってしまいました。
 お正月というのは節目でもあり、ある種のお祭りでもあり、そういう時期というのは、辛いことや悩みを抱えている人には辛い時でもあったりしますよね。
 自分は「節目」というのは苦手な方だと以前書いたのですが、そんな自分にお正月は楽しめなかったかというと、そうでもなく。
 無理して前向きになろう、目標を立てようとかすると辛くなるんですけどね。
 そんなわけで、気持ちを新たにすることもなく、2007年、少なくてもあと2ヶ月はほしいなー、とか思いながら、まったりと年を越えました。
 そして例年通り箱根駅伝に熱くなりました。今年は大波乱のレースだったようですが。

 無理をすると辛い、とは言っても、辛い時というのは大抵無理をせざるをえない状況だったり、無理をしていることに自分で気づけなかったりするんですよね。
 そうした状況に一発逆転の方法というのはなかなか無くて。
 辛い状況の中で自分と向き合っている時というのは、地道に1つ1つ取り組んでいくしかない。また、とりあえずは現状を維持するだけでもいいという、一種の気長さも必要になってくるのかもしれません。
 インターネットでひきこもりの人が集まる掲示板などを見ると、大勢の人がそうした生き方をしているんだなあ、と思いました。みんなとても自分を大切にしていて、そういう人達の書く文章などを見ると、皆さん、とても強いなー、と感じます。

 昨年ごろから、テレビを見ていると、「ワーキングプア」「格差社会」「ネットカフェ難民」などの言葉を聞くことが多くなり、特に若い世代の働く環境について言われることも増えてきたようですね。
 個人の問題ではなく、社会の問題として考えられるようになったのは、いいことなんだろうなあ、と思います。
 ひきこもりや不登校も、個人や家庭に原因を求めるのではなく、もっと社会の問題として捉えられるようになっていけばいいと思いますが。

投稿者 YUKI : 13:08 | コメント (0)

2008年01月08日

ネットいじめの記事を読んで

今朝の朝日新聞に全国webカウンセリング協議会が載っていた。ネットいじめは高校生のいじめ件数の14パーセントを占める。(文部省調べ)
ネットいじめに対して、個人や学校単位で対策を講じても、いずれ限界にくるだろう、と予想している。それほどネットの普及スピードが速く、問題に対応しきれないのだ。国全体で早急に取り組まなければならない、と結んでいる。

問題を起こすのは突っ張った一部の生徒ではなく、ごく普通の生徒がごく普通の生活の中で、被害者になり、加害者になっている。

誰がやったかわからない状況ほど、恐ろしいものは無い。誰でもやることができるのだから、誰かを特定するのは不可能だ。

もし、匿名で情報を発信できれば、人を陥れることも可能だ。貶めることも、辱めることも。


ナチスを力づけたのは、当時の一般的な市民層であった。ナチスの暴力を見逃したのだ。失業の重苦しい生活の中で、失業から救い出してくれた救世主であったし、深い失望の中で、ゲルマン民族の誇りを持たせてくれた英雄であったからだ。普通の市民が普通に支持したに過ぎない。


普通の人とは、はたしてどんな問題をかかえている人なのだろうか。


投稿者 恵比寿 : 20:14 | コメント (0)

2008年01月05日

夢とモチベーション

秀吉がなぜ無理をして朝鮮出兵したのか、
・・・・
それは、加藤清正らの働き場所を
作らなければならなかったから。
という見解に、
わたしは「なるほど」と思った。
「会社30年説」 というのがある。
宇野重吉さんは、「劇団一代論」と言った。
全体を引っ張っていくのには、モチベーションが必要なのだ。
代表者は夢の創造者ですね。
生きている限り、夢を求め続けられた人は
本当に幸せ者!
日本人は、新年をリセットの日として、
新たな目標を立てた。
まわりから見たら、小さな目標であっても
自分の人生なんだから「自分の目標」を
自分で設定して
自分で達成していく・・・すばらしいよ。

「夢を生きろ」と
がばばぁちゃんは、高校進学で迷う孫に言った。
そして、続きがいい。
「所詮夢だから」
と、夢が実現しないから夢であること。
夢が実現しなくてもそれでいい、実現したら夢でなくなる、
ということも教えた。
夢を見ている間が、夢なのだ。
しかし、
人間は、夢がなかったら
生きるのがどれほどつまらないだろう。
夢が実現したら、夢は夢でなくなったとしても、
夢を描けることは素晴らしいと思う。

人はみな夢がほしい。
生きている間に達成できなくてもいい。
夢を描こう。

がばいばぁちゃんは、
「お金は大事ばい。
しかし、お金より大事なもんがある。」
「なんね?」
「それを見つけられた人は
しあわせたい。」
ばぁちゃんは、
"それ"を、"夢"といった。


投稿者 城谷小夜子 : 16:58 | コメント (0)