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2007年05月28日

自分の時間

 異なる立場を理解するのは難しい。
 よく言われることですけど、本当にそうだなあ、と思います。
 ぶっちゃけ、親と子がわかりあうのって難しいなあ、と考えている今日この頃です。社会が大きく変化して、育った環境があまりにも違う。でも、たとえ自分とは異なっていたとしても、相手のことを否定的に見ているうちは、本当の姿って見えてこないんじゃないかなあ、と思います。

 新聞にこんな記事が出ていました。
 いわゆる「自分探し」についてアンケートをとったところ、親と子ではっきりと違いが出たらしい。たとえば「自分探し」は何歳まで許されるか、という問いに対して、親の場合は「年齢を問わず許されない」という回答もけっこうあったようで。

 「自分探し」ってブームみたいになってましたからね。それに違和感を覚えたり、否定的に見る向きは今までにもあったと思います。「個性的であること」を押し付けるような形で使われたら確かに問題だと思うし、中には、自分も共感を覚えた意見もありました。
 人は本来他人と違って当たり前なんだから、無理に探そうとしなくてもだいじょうぶ、要は本当の自分は足元にあるってことなんでしょうね。
 けど、「自分探し」を全否定していいのかと言われると、自分も似たようなことやってたし、そういう風には思えなかったです。

 私は、これだけ「自分探し」が言われるのは、やっぱり「必要に迫られて」があると思うんですよ。要は探さなければならないほど、本来そこにあるはずの「自分」が行方不明になっている現状もあるんじゃないかって。
 じゃあ「自分」ってなんなのか。顔が違うとか育った環境が違うとか、能力の違いとかは当然だけど、でもそういうことじゃなくて。
 同じ花を見てもあなたと私が感じることは違う、同じ意見を聞いても考えることが違う、私は野球が好きだけどあなたはスポーツにすら興味が無い、代わりに音楽を聴いたらじっとしていられない。
 じゃあ、そういうものってどこから生まれるんでしょうね。
 それは生まれてから今日まで積み上げてきた、自分の生きた時間じゃないでしょうか。
 じゃあ今度は、自分の時間ってなんなのか(笑)。
 要するに、誰でも経験する、考えたり、感じたり、悩んだり、そういう全て。でも私たちは、忙しすぎて、ふとそういった人間らしさを喪失していた、なんて経験、覚えがありますよね。
 もしもそういう状況が、まだ発育途上の子供のうちからずっと続いていたとしたら、どうなると思いますか。

 将来のことに悩むのは、若いうちの醍醐味みたいなものですよね。
 自分の夢と能力とのギャップに悩んだり、壁に当たった時、力が足りなくてもがいたり、周りに助けてもらったりしながら、自分なりの答えを(不完全なものであっても)見つけたり。
 若者が悩んじゃいけないなんて言う人は多分いないと思います。
 でも、今、「社会が子供に求めること」を全部真面目に実行したとしたら、正直悩む時間すらないと思うのですが……。

投稿者 YUKI : 2007年05月28日 15:39

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